今回は、酒とゲームとロボットから少し離れて、私が感動した漢字のお話。
宮城谷昌光さんが書いた『呉漢』という小説がありまして、呉漢という人は劉秀さんの後漢王朝の創成を大いに助けたすごい人なのですが、まあそれはおいといて。
その小説の最初の方に、「呉漢は、天を瞻(み)ず、地を瞰(み)た。」という文があったのですよ。
何だこりゃ、こんな漢字、見たことないぞ。私が使う「みる」は、見るに観る、がんばって視るだ。なぜ天と地でみるの漢字が違うんだ?と疑問には思ったのですが、深く調べることもせず疑問をそのままにしておりました。
そんなある日、これまた宮城谷昌光さんの『三国志読本』を読んでいると、宮城谷さんと白川静さんの対談が載っておりました。その中に白川静さんの字書三部作(『字統』、『字訓』、『字通』)の話が出ておりまして、お、もしかしたらこれがあればほったらかしてたあの疑問も解けるかも。でも三部作のうちどれを買えばいいのだ?ええい全部買ってしまえということで、ヤフオクにより中古で三冊買いました。
対談の言葉を借りると、『字統』は字源(漢字の成り立ち)、『字訓』は漢字の意味内容と日本の訓のつけ方にどんな必然性があるかを、記紀万葉など古代の用例を挙げて解明、『字通』は『字統』と『字訓』を統合化し、漢和辞典の要素を加えたもの、だそうです。
その分厚さにびっくりしながら、さっそく「瞻る」と「瞰る」を引いてみます。一言ではとても言い表せないのですが、がんばって表わしてみますと、
「瞻る」は遠く視る、自然の生命力に満ちたものをみることで人の生命力を盛んにする魂振り的な行為。
「瞰る」は 遠く臨み、見下す。門中を伺いみる。神意をうかがう。
同じ遠くを見るのでも、「瞻る」は仰ぎ見て、「瞰る」は見おろす。ああ、だから天は「瞻る」で、地は「瞰る」なんだ。漢字ってすごいなあ。たった一文字に、どれだけの思いが込められているのだろう。
二つの漢字の違いを踏まえて改めて小説を読むと、それまで何回も読んでいる小説なのに、また違った感動を与えてくれるのですよ。
例えば、同じ物語の後半で、来歙さんという人が、呉漢さんにこんなことを言うのですよ。
「いや、大司馬どのは、土に耳をあてて、土の声をきいていた。あなたは地神に護られている。穀物をいたわり育てた人は、地が天意を伝え、教えてくれる。(後略)」
今まではさらっと流し読んでいたのですけれど、「瞻る」と「瞰る」の意味を知った後でこの文を読むと、ああ、これが「瞰る」ということなんだ。もしかしたら、「瞻る」は自分のための行為で、「瞰る」は人のための行為なのかな。
とまあ漢字一つの意味を知るだけで、思いがどんどん広かる感じ。
こんなふうに漢字って、ことばってすごいものだから、特に政治家の人たちには、ことばを大切にしてほしい。
参考にした本:『字統』、『字訓』、『字通』(平凡社)
『呉漢』(中央公論新社)