秀丸の酒とゲームとロボットの日々

酒とゲームとロボットが大好きです

酒の日々・読むお酒 若山牧水『それほどにうまきかと人の問うならば何と答えんこの酒の味』

 最近、夜が明けるのが早くなりましたねえ。6時にはもう明るいので、朝起きるのがつらくなくなりました。

 明けない夜はないのだ。 

 

 突然ですが、今日は若山牧水さんのこの短歌。

それほどにうまきかと人の問うならば何と答えんこの酒の味

  いやはや、本当に何と答えれば、お酒を飲んだ時のこの、胸いっぱいに幸せが広がっていく気持ちを表現できるのでしょう。いくらことばを連ねても、言い尽くせない。まさに酒中の趣。

 若山牧水さんは、本当に酒飲みの気持ちをよく分かっているなあ。

 

 超余談ですが、そういえば、孔子さんは過ちについてこんなことも仰っていたそうな。

「君子の過つや、日月の食の如し。過つや人これを見る。改むるや人皆これを仰ぐ。」

 この場合の君子は、為政者、君主を指します。君主が過ちを犯せば、日食や月食のように、全ての民びとがそれを見ている。君主が率直に過ちを認めて改めるならば、またもとのようにふり仰ぐのです。

 そして孟子さんはこれを受けて、

「今の君子は、過てば則ちこれに順う(押し通す)」と仰ってます。

 我が国の君子は、どちらでしょうか?

 

参考にした本:『酒・肴おもしろ雑学とっておきの話』(三心堂出版社)

       「エピソードで分かる中国の名言100」(明治書院

酒の日々・読むお酒 蘇東坡『和陶飮酒二十首』其三

 さ・・・三國志14が、終わらないよお。いやまあ、イベント発生に失敗しするたびに、最初からシナリオプレイし直している自分のせいなのですが。  

 

 まあそれはおいといて、今回は蘇東坡さんの詩。そういえば、ほんとは詩人さんの名を書くとき、名か字(あざな)か統一した方がいいのであろうなあ。あまり気にしていませんでした。(蘇東坡さんの場合、名が軾で字(あざな)は子瞻(しせん)。東坡は通り名?)

 

道喪士失己 出語輒不情  道、喪うて、士、己を失ふ。語を出す、輒ち情ならず。

江左風流人 醉中亦求名  江左風流の人、醉中亦た名を求む。

淵明獨淸眞 談笑得此生  淵明、獨り淸眞、談笑、この生を得たり。

身如受風竹 掩冉衆葉驚  身は風を受くるの竹の如く、掩冉として衆葉驚く。

俯仰各有態 得酒詩自成  俯仰、各々態あり、酒を得て、詩、自ら成る。

 

この世に道がなくなって、ぼくはどうしたらいいのだろう。何を話したらいいのかも、分からない。

風流人といったって、酔っ払っても名を求む。

だけどね、陶淵明先生ただ一人が、一人清真で、酔って笑って生き抜いた。

その身は風を受ける竹のようで、その姿に周りの草木はびっくりだ。

全ての物をありのままに感じ、お酒を飲めば、詩は自然にできるのさ。

 

 最後の「酒を得て、詩、自ら成る。」しか覚えてなかったのですが、実は陶淵明さんを讃えた詩だったというのを、今気づきました。

 

 超余談ですが、最近の中国に関するネットのニュースを見て、

「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」過ちを自覚して改めようとしない、これが本当の過ちである。)

という孔子さんのことばを思い出しましたよ。

 このように、中国にはいいことばがたくさんあったはずなのに。 

 今の中国は、どうしてしまったのだろうなあ。

 

参考にした本:蘇東坡詩集巻34(道立図書館にあった本のコピーなので、詳細知らず)

       エピソードでわかる中国の名言100(明治書院

酒の日々・読むお酒 エルベ・ル=テリエ「束の間の味」(『カクテルブルース in N.Y.』より)

 『カクテルブルース in N.Y.』は、私が初めて買ったお酒関連の本です。(たぶん。なにせ〇十年以上前のことなので、記憶が定かではないですが。)

 

 本の舞台はニューヨークですが、作者はフランス人。ジェイズ・バーのオーナー兼バーテンダーのジェイ、ピアノマンのアルシー、ウェイトレスのローズと、バーを訪れる人々が織りなす、カクテルストーリー。フランスの週刊誌の趣味のコーナー的ページで好評連載されていましたが、最後は主人公のジェイが客に刺殺されるという、大胆な終わり方。

 

 久しぶりに本を開くと、中の紙はすっかり変色してしまっていますが、中身はちっとも色あせていない。

 

 カクテルは人を詩人にするのでしょうか。文中には気の利いた台詞がたくさんあります。例えば、「束の間の味」の中でケートがアイリッシュ・コーヒーを目の前にしてジェイに投げかけた一言。

  

「あのね、アイリッシュ・コーヒーって、人生みたいなカクテルなのよね。

最初の一口は強烈、そして甘く優しい。ある時は熱く、そして時々冷たいわ。

ところが時が経つと生ぬる気抜け、すっかり灰色のうすらぼんやりよ。

どう?人生の味は・・・・・・」

 

 この本に載っているアイリッシュ・コーヒーのレシピは、ウイスキー40ml、砂糖1tsp、濃いめのホット・コーヒー適量。ウイスキーに熱いコーヒーを入れ、ホイップ下生クリームを上にフロート。カクテル作りの描写が、すっごくおいしそうなんだなあ。

 

 この本や続編の『カクテルアンコール in N.Y.』を手にバーに行って、「この本に載っているこのカクテル作ってください!」って、よくやりました。

(超余談ですが、『カクテルアンコール in N.Y.』の方に「ナイト・メアー」というカクテルがありまして、ラム、レッド・ヴェルモット、ホワイト・ヴェルモット、ペパーミントリキュール、ウースターソース、トマト、アーティショークの芯、干しブドウ(文中ではジンも入れてました。)からなるという、すさまじいカクテル。一度飲んでみたいのだけれど、バーで頼む勇気がありません。)

 

 たまにはバーで人生の味、どうですか? 

 

 

参考にした本:『カクテルブルース in N.Y.』(求龍堂

ゲームの日々 「三國志14」ー孫堅さんの天下取りの日々ー

 やあみんな!俺は孫堅。字は文台。人呼んで江東の虎。この時代、一人称が俺でいいのか知らないけれど、気にしない!

  時は、光和7年(紀元184年)太平道の教祖、張角の衆徒が一斉蜂起。いわゆる「黄巾の乱」ってやつだ。黄巾賊はあっという間に天下に広がり、賊に対応するため代将軍の何進を中心に討伐軍が組まれることになった。

 それに乗じて俺も天下取りに名乗りを上げることになったわけだ。でも俺、正史ではこのとき朱の部下儁の部下として黄巾討伐にあたっていたはずなのだけれど、そんなこと言ったらゲームが進まないので、気にしない。

 で、とりあえず兵と兵糧を増やすため、拠点に武将を配置して内政に励むのだが・・・律儀にひとつひとつの拠点に武将を配置していたら、武将が足りん!

 で、チュートリアルでゲットした古武将をゲームに投入。余談だが、チュートリアルでの劉備は、なかなかのお調子者ぶりで笑えたぞ。

 そしてプレイ再開。もとい天下取り再開。古武将はみんな能力が高いので楽勝だぁと思ったのだが、これがいばらの道の入り口だったのさ。

  まず、武将の忠誠心が下がりすぎる!特に管夷吾と呉起!お前たち、さっき名品あげたばっかりだろ!おかげであっという間に何進に引き抜かれてしまったではないか!何進も、大将軍のくせにせこすぎる!(褒賞でお金をあげることによって忠誠心をあげることができるのは、2回目のプレイで知りました。)

 そして、兵糧が減りすぎる!すーぐひょっこり兵糧切れになるではないか!おまけに何も考えずに真っ直ぐ進軍すると、いつの間にやら兵站線が消えている!兵站って、風で飛ぶのか?(初回プレイ時は、本気でそう思っていました。)

 さらに、部隊が進むのが、遅い!まあ確かに、馬車と徒歩でそんなに速く進めるわけはないのは分かっているのだが、それにしても遅すぎる!

 またさらに、何進やら黄巾やらの勢力がでかすぎて簡単に滅ぼせないので、武将を登用できず、常に部下の武将不足!(捕まえた武将を気前よく解放していたので、さらに登用できてませんでした。)

 あげくに、もう少しでシナリオクリア、もとい天下統一だと思ったら、何故か部下にしていた曹操が独立。なんでやねんと思いつつ討伐して解放したら、どの面下げてかまた仕官しにきやがって、断ったら捨て台詞。なんでやねん。

 あとはどうでもいいけど、俺が息子の策のことを伯符と字で呼んでいたような気がするのは、ちょっと違和感。(古代中国では、外には字、家族には名を使っていたそうなのです。)

 

 というわけで、なんとかシナリオクリアはできましたが、私の三國志14初回プレイはさんざんでした。

 2回目のプレイでも、連環の計のイベントをおこそうとしたら、イベントに必要な王允さんはいつのまにか董卓から袁紹に鞍替えしてるし、イベントに必要な武将が関にいたらイベントおきないのに、呂布は関に入り浸りだし。もうなんでやねんでした。

 そして今は三顧の礼のシナリオにおいて劉備でプレイしているのですが、曹操がこれでもかこれでもかと劉備のいる新野に攻め寄せてくる。曹操さん、気持ちは分かるけど、も少し間をあけてほしい・・・。

 

 まあ文句を言いつつ、ゲームを買った次の土日に飲まず食わずでプレイして、月曜に動けなくなって仕事休むほどだったのは、けっきょくなんきょく、私は三國志」が好きなのだろうなあ。

 

漢字の日々 「嘘」(うそ)と「妄」(うそ)

 漢字のお話、再び。

 

 宮城谷昌光さんは、「うそ」ということばに、「妄」という漢字をとくあてます。

 『呉漢』でも、

「人の話には、半分信(まこと)があっても、あとの半分は妄(うそ)だということよ。(後略)」

 というふうに。

 「妄」ってあまり使わないよなとちょっとだけ思いましたが、それ以上深く追求してませんでした。

  いやしかし、今の私には、白川静さんの字書三部作(『字統』、『字訓』、『字通』)がある!知って何が得するかというばなにも得しませんが、知る前の私と後の私は、きっと何かが違うはず。

 いまだにその厚さにおののきながら、まず「妄を引こうと『字統』を「うそ」の読みで探してみますと…、あれ?「妄」の読みに「うそ」がないぞ。ではなぜ宮城谷さんは「妄」を「うそ」と読むのだ?まあそれは、ご本人に聞かないと分からないのでおいといて。

 「嘘」。声符は虚。虚は墳虚(はか)の意で実体のないもの。嘘はことばにならぬ気息をいう。わが国では「うそ」の意に用いるが、うそは虚偽、嘘は気息に用いる字である。

 ついでに「虚」。虚址(古代王朝の都城)の義より転じて現存しないもの、虚実の虚となり、虚偽・虚構の意となり、空虚・虚無の意となる。老荘の思想において、無が絶対否定的であるのに対して、虚は実の否定態として、実を可能ならしめる原理としての意味をもつ。

 ちなみに「嘘」の読みは、キョ、コ、なげく、うそぶく、うそ。

 「妄」。声符は亡妄と荒とは字義に関連がある。は草間に遺棄された屍体。妄も亡に従うて、死骨の呪霊へのおそれを含む字であろう。

 ちなみに「妄」の読みは、ボウ、モウ、みだりに、いつわり、あやまる。

(漢字の説明、一部はしょってます。)

 『字統』を読んだ後の私の勝手なイメージは、「嘘」はないものをあるということで、「妄」はあるものをないということ。もちろん私の勝手な想像なので、話半分に聞いといてくださいー。

 

 まあなぜ今回うその字について調べようと思ったかというと、最近の国会のやり取りにうんざりしてきたからなのさ。うそだらけ。

 国会に漂ううそは、「嘘」か「妄」か?

 

 

参考にした本:『字統』、『字訓』、『字通』平凡社

       『呉漢』(中央公論新社

漢字の日々 「瞻る」(みる)と「瞰る」(みる)

 今回は、酒とゲームとロボットから少し離れて、私が感動した漢字のお話。

 

 宮城谷昌光さんが書いた『呉漢』という小説がありまして、呉漢という人は劉秀さんの後漢王朝の創成を大いに助けたすごい人なのですが、まあそれはおいといて。

 その小説の最初の方に、「呉漢は、天を瞻(み)ず、地を(み)た。」という文があったのですよ。

 何だこりゃ、こんな漢字、見たことないぞ。私が使う「みる」は、見るに観る、がんばって視るだ。なぜ天と地でみるの漢字が違うんだ?と疑問には思ったのですが、深く調べることもせず疑問をそのままにしておりました。

  そんなある日、これまた宮城谷昌光さんの『三国志読本』を読んでいると、宮城谷さんと白川静さんの対談が載っておりました。その中に白川静さんの字書三部作(『字統』、『字訓』、『字通』)の話が出ておりまして、お、もしかしたらこれがあればほったらかしてたあの疑問も解けるかも。でも三部作のうちどれを買えばいいのだ?ええい全部買ってしまえということで、ヤフオクにより中古で三冊買いました。

 対談の言葉を借りると、『字統』は字源(漢字の成り立ち)、『字訓』は漢字の意味内容と日本の訓のつけ方にどんな必然性があるかを、記紀万葉など古代の用例を挙げて解明、『字通』は『字統』と『字訓』を統合化し、漢和辞典の要素を加えたもの、だそうです。

 その分厚さにびっくりしながら、さっそく「瞻る」と「瞰る」を引いてみます。一言ではとても言い表せないのですが、がんばって表わしてみますと、

 「瞻る」は遠く視る、自然の生命力に満ちたものをみることで人の生命力を盛んにする魂振り的な行為。

 「瞰る」は 遠く臨み、見下す。門中を伺いみる。神意をうかがう。

 同じ遠くを見るのでも、「瞻る」は仰ぎ見て、「瞰る」は見おろす。ああ、だから天は瞻る」で、地は「瞰る」なんだ。漢字ってすごいなあ。たった一文字に、どれだけの思いが込められているのだろう。

 二つの漢字の違いを踏まえて改めて小説を読むと、それまで何回も読んでいる小説なのに、また違った感動を与えてくれるのですよ。

 例えば、同じ物語の後半で、来歙さんという人が、呉漢さんにこんなことを言うのですよ。

「いや、大司馬どのは、土に耳をあてて、土の声をきいていた。あなたは地神に護られている。穀物をいたわり育てた人は、地が天意を伝え、教えてくれる。(後略)」

 今まではさらっと流し読んでいたのですけれど、「瞻る」と「瞰る」の意味を知った後でこの文を読むと、ああ、これが「瞰る」ということなんだ。もしかしたら、「瞻る」は自分のための行為で、「瞰る」は人のための行為なのかな。

 とまあ漢字一つの意味を知るだけで、思いがどんどん広かる感じ。

 

 こんなふうに漢字って、ことばってすごいものだから、特に政治家の人たちには、ことばを大切にしてほしい。

 

 

参考にした本:『字統』、『字訓』、『字通』平凡社

       『呉漢』(中央公論新社

酒の日々・読むお酒 王莽「酒は百薬の長」(『食貨志』より)

 「酒は百薬の長」という言葉は、一度は聞いたことはあると思うのです。一見お酒サイコー!な言葉に燃えますが、実はそうでない、というお話。

 

 王莽さんという人は、劉邦さんが創った漢王朝を簒奪しちゃって、自分の王朝をたてちゃった困ったちゃん。その王朝が善政ならよかったのですけれど。

 王莽さんは理想を追い求めすぎて、民のためではなく自分のために政治をしてしまったのですよ。

 まあそれはおいといて、王莽さんは、塩とお酒と鉄を政府の専売にしようとして、もっともらしい理屈をつけたのです。

 

塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本

 

 それ塩は料理の将、酒は百薬の長、めでたい席の喜び、鉄は農業の本。これらは必需品だけど手作りできないから、俺が管理してやるよ。なーんちゃってね。

 お酒だけ効能がふたつあるのが、ちょっと嬉しい。

 

 ちなみに、王莽さんの王朝「新」は、たった14年で儚く消えました。

 

参考にした本:『エピソードでわかる中国の名言100』(明治書院