漢字のお話、よたび。
えー、宮城谷昌光さんが書いた『管仲』という小説がありまして、管仲さんは中国春秋時代に斉の桓公さんを覇者にした、稀代の名宰相なのですが、(仲は字で、名は夷吾)その中に「酒を耽しむより、女を婾しむより、管仲といたほうが怡しいのである。」と鮑叔さん(管仲さんの大親友)が思う場面があるのですよ。そして、管仲が昔の婚約者と再会する場面で、婚約者が管仲さんのことを誇らしい気持ちになると言うのを聞いて、「それは愉しい」と一笑します。
ふーん、たのしむって楽しいだけではないのだなあ。そのうち意味を調べてみようかなあと思ったけども、そのまま放置。
で、そのうち。
『字統』の字訓索引で「たのしむ」を引くと、その数の多さにわあびっくり。旧字体を除いても37もありますよ。昔の人はどれだけ楽しかったのだ?
「耽」。声符は冘(いん)。冘に沈・酖の声がある。[説文]に「耳大いに垂るるなり」とあり、儋と同じく儋耳、耳が垂れることをいう意が原義。(後略)
ちなみに「耽」の読みは、タン、みみたぶ、たのしむ、ふける。
「婾」。声符は兪(ゆ)。兪に偸(とう)・愉(とう)の声がある。兪は舟(盤)と余(外科用の曲刀)の形に従うて、手術刀を以て膿血を盤に除去する意であるから、治癒することを意味し、愈(ゆ)(いやす)の初文。[説文]に「巧黠なるなり」、すなわちわるがしこい意とするが、声義ともに愉に近い字である。婾生・婾薄はまた偸生・偸薄ともしるし、一時の僥倖を貪ることをいう。(後略)
ちなみに「婾」の読みは、トウ、ユ、わるがしこい、ぬすむ、たのしい。
「怡」。声符は台(い)。台にも怡ぶ意があって、[説文]に「台は説ぶなり」とみえ、[史記、太史公自序]に「諸呂台ばず」の語がある。同じく台を声符とする怠は、怠慢の字である。台は耜(すき)の形である厶に、祝禱の器のさい(字が出てこない)を加えて、農具を清める儀礼をいう字であるから、怡は台の声義をも兼ねて、怡悦の義となる。(後略)
ちなみに「怡」の読みは、イ、よろこぶ、たのしむ。
「愉」。旧字はゆ(字が出てこない)に作り、兪声。兪は把手のある手術刀(余)で患部の膿血を取り除き、これを盤(舟)に写し取る意で、これによって病苦を除き、心の安らぐのを愉という。(後略)
ちなみに「愉」の読みは、ユ、トウ、たのしむ、よろこぶ。
なお、「たのしむ」に一般的に使われる「楽」は、柄のある手鈴の形で、もと舞楽のときにこれを振って、その楽音をもって神を楽しませるのに使用したそうな。
ふーむ、みみたぶの「耽」が何故たのしむなのかはよく分かりませんが、きっと鮑叔さんは管仲さんを尊敬というか、ある意味神に対するような気持ちだったのだろうなあ。そして管仲さんは、かつての婚約者に会えて、心のつかえが取れたような、心安らぐ気持ちだったのだろうなあ。
そして、「たのしむ」は、本来自分だけが楽しむのではなくて、他人を楽しませて自分も楽しむものなのだなあ。
管仲さんは、貴族の時代に初めて民のための政治を行った人。
「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」
今の我が国には、管仲さんみたいな人はいないのかなあ。
参考にした本:『字統』(平凡社)
『管仲』(文春文庫)