秀丸の酒とゲームとロボットの日々

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酒の日々・読むお酒 大伴旅人『古の七の賢しき人どもも欲りせしものは酒にしあるらし』ほか

 やれやれ、やっとこさ「龍が如く7」のスーパーファイナルミレニアムタワークリアできましたよ。意外とスーパーな支配人は強くなかった。

 

 さてさて、なぜか我が国の和歌には、酒中の趣を詠んだ歌はほとんど無いのですが、その中でも珍しくこの大伴旅人さんという人は、「讚酒歌十三首」という、お酒ばんざいな和歌を詠んだのです。  

 

『駿(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし』

『酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ』

『古の七の賢(さか)しき人どもも欲りせしものは酒にしあるらし』

『賢しみと物いふよりは酒飲みて酔泣(ゑするしまさりたるらし』

『言はむ為便(すべ)せむ為便知らず極りて貴きものは酒にしあるらし』

『なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染みなむ』

『あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る』

『値無き宝といふとも一杯の濁れる酒にあに益(ま)さめやも』

『夜光る玉といふとも酒飲みて情(こころ)をやるにあに若かめやも』

『世のなかの遊びの道にすずしくは酔泣するにあるべかるらし』

『今(こ)の世にし楽しくあらば来む生(よ)には虫に鳥にもわれはなりなむ』

『生者(いけるもの)つひにも死ぬるものにあれば今(こ)の世なる間は楽しくをあらな』

『黙然(もだ)をりて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ若かずけり』

  

 陶淵明さんがしみじみ、李白さんがおおらか、白楽天さんがほのぼのだとすれば、大伴旅人さんはめそめそ?やたら酔って泣く感じ。

 なんでも「讚酒歌十三首」は旅人さんが太宰府に左遷させられたときに詠んだ歌なのだそうです。つらかったんだなあ。

 涙はね、心を洗ってくれる。そしてお酒はね、心がどん底に落ちるのを少しだけ遅らせてくれるのです。

 

 超余談ですが、最近ネット上にいろいろな情報が散乱いたしてまして、その情報を基に他人を攻撃する人がやたらいまして、つくづく宮城谷昌光さんの小説『呉漢』にある「話半分」の難しさを痛感します。

 そこで、「話半分」のおさらい。

「人の話のなかの妄と信をいちいち鑑別することはとうていむりである。また、そのときは妄だとおもわれたことが、時間が経ってから、信に変わることもあろう。それゆえ、人の話を半分に割ることは理に適わない。つまり話半分というのは、きいたという事実を一とすれば、その半分に縮小しておくということではないのか。そうすれば半分が空く。たとえばいま、祗登にかぎってそんなことをするはずがない、とおもったのであれば、そのおもいを、空いた半分にいれておく。話半分、とは、そういうききかたをいうのではないか。」

 

参考にした本:『讚酒詩話』(岩波書店

       『呉漢』(中央公論新社