漢字のお話、ごたび。
今回は、同じ読みの違う漢字のお話ではなく、宮城谷昌光さんの小説『太公望』の主人公「望」が、自分の名前の文字を知る。そんなお話。
『太公望』は、古の中国の王朝「商」を倒した「周」の文王・武王の軍師的な存在。
小説『太公望』は、完成された太公望ではなく、望という一人の人の物語なところが、好きなのだなあ。
羌族のなかの呂族の族長の子である望は、呂族のほとんどを商に殺され、紆余曲折を経て孤竹(こちく)の邑(くに)にたどり着きます。そこで望は邑の近くの山の洞穴に住む老人に、剣術と文字を習うのです。剣術も文字も、このころはまだほんの一部の人しか手にしていませんでした。
文字の中で、望はまず、自分の名前の文字を教えてもらいます。目の大きな人がつまさき立って遠くをながめている象(かたち)です。
「この目は、千里のさきをみる能力がある。つまさき立った足は大志のあらわれである。望は、死ぬまで望である。忘れるな」
老人は、文字を教えてくれると同時に、生き方も教えてくれた。そんな気がします。
『字統』で「望」を引いてみると、その解説が長い長い。とても全部は書けないので、さわりだけ。
「望」。声符は亡(ぼう)。卜文は、大きな目をあけ、挺立して遠くを望み見る人の形である「ぼう(字が出てこない)」で、象形。のち金文の字形は月を加え、また目の形の臣が亡の形に書かれて望の字となった。望は声符として亡を加えた形声字。(中略)遠く望むことによってその妖祥を察し、またその眼の呪力によって敵に圧服を加える呪儀を望という。(後略)
ちなみに「望」の読みは、ボウ(バウ)、のぞむ、ねがう。
文字の成り立ちを知ることによって、いつもの景色も違って見えてきます。例えば、「咲」という字に「わらう」という意味があるということを知ってから、道端に咲いている花を見るたびに、「あー、花が笑っているなあ。そっか、花は咲くのを誇っているのではなくて、咲くのが楽しくて笑っているのだあ」と、とりとめのないことを考えてしまいます。
だからこそ、ことばを、人を攻撃する道具に使ってほしくない。
超余談ですが、古代中国の戦国時代の名臣を紹介している『戦国名臣列伝』という本の中に、気になる文章がありました。
当時の大商人であり経済学者でもあった白圭さんが、中山と斉からとどまるよう請われたけど辞退した理由を人に問われて、
「この二国はまもなく滅ぶでしょう。わたしがかつて学んだことに、五尽、というものがあります。何を五尽と謂うのか。約束をかならず守るということをしなければ信が尽き、人を正しく誉めることをしなければ名が尽き、臣民を愛することをしなければ親が尽き、出陣する者に兵糧がなく国に居住する者に食料がなければ財が尽き、人を用いることができず自分の才能も発揮できなければ功が尽く。国に五尽があると、幸運にめぐまれることなくかならず滅亡するのです。中山と斉はそれに当たるのです」
今の我が国は、どこまで尽きているのだ?
参考にした本:『字統』(平凡社)
『太公望』(文春文庫)
『戦国名臣列伝』(文春文庫)